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 第2回 システムと人間関係
 第3回 「おしゃべり」はコミュニケーション?
 第4回 自由になれない日本人
 第5回 自由への扉はどこに?
 第6回 デジタルの中の対話
 第7回 消えゆく社会の枠組み
 第8回 「恐怖のワンパターン」からの抜け道
 第9回 『ゲーム脳』? 『短詩形の伝統』?
 第10回 親子関係も個人主義? 迷子今昔
 第11回 肩書きで人が変わる?
 第12回 病気になるということ
 第13回 老境のなかの実感
 第14回 ロンの死
第14回 ロンの死
臨床心理 加瀬 紀幸
毎週のように我が家に姿を見せていた従弟がしばらく見えないのでどうしたのかと心配していたら、愛犬が亡くなって落ち込んでいるとのこと。

「しばらく気持ちの整理ができないから伺えないって。全く馬鹿馬鹿しい話でしょ」

奥さんはあきれ顔でそういった。
「可愛がっていたからな」
従弟の愛犬狂いを目の当たりに見てきた私としてはそういうしかなかった。
「もらってくれないかって頼まれて飼いだした犬なんでね。最初から飼うんだったらあんな小さなのにはしなかったと思うんだけど」
従弟が言い訳がましくいっていたのを昨日のように思い出す。

「ロン」と名付けられたその小さな犬は子供のいなかった従弟の家の中で、いつの間にか大変重要な存在となっていった。見方によっては子供以上であったかもしれない。それは、子供が時間と共に親から離れていくのとは違って、いつまでも幼子であり続けるからである。

「そんなに可愛いものかな?」何かの折にそう尋ねたことがあった。
「実をいうと、あんなに可愛くなるなんて思わなかった。人間同士ではこういう関係は無理かもしれないなって思う」
「理想的な恋愛関係に近いとでも?」私は冗談めかしてそう聞いたのだが、彼は全く生真面目な調子であった。
「そうね。ちょっとちがうかな。恋に落ちるっていうけど、ロンとの関係は契約が始まりだった気がする」
「契約?」
「ボクの方の、人間側の意識といってしまえばそうなんだけど、家に来てから間もなくして、ボクをじっと見つめているロンに気がついたんだよ。妙な感じだったな」
彼は懐かしむように言葉を切った。
「おまえにとって私は何なのか? そう問われている気がした」

それはまさに感情移入に違いない。犬の問題ではなく人間自身の問題だと突っ込みたくなるのを抑えた。
「それで?」
「彼には飼い主を選択する権利はなかったわけだよね。しかもボクには生殺与奪の権利がある。幸か不幸かボクの所へ来てしまっている以上、ボクが受け入れるしかないかなって心を決めたわけ」
その時以来、一人の人間と一匹の子犬の間に契約が成立した、とのことであった。大仰な言い方ではあるが、突然自分の生活の中に異分子が入り込んできたのだから、その上自分の方が絶対的優位な関係であるから、どう付き合っていくかは意識せざるを得なかったのだろうということはわかる。

従弟と愛犬「ロン」との関係は、しつけを通して初めのうちは「神」と「人」との契約関係のようであった。しかし、時間と共にそれは微妙に変化していった。次第に「わがまま」が顔を出してきた。もっともわがままという言い方は人間からの見方であって、「ロン」からすれば、自分の思いを素直に表現しているといって良いのかもしれない。

「全く。私よりもいいっていうのよ」
何度奥さんからこの台詞を聞かされたことだろうか。帰宅時間が近づくと玄関の所に座って待っていて、姿を見るとクルクル回って大喜びするし、寝込んでいるときには、自分も枕に頭を載せて心配そうに座り込んでいるとのことであった。無条件に自分との関係を求めてくる小さな命は次第に飼い主の心を虜にしてしまった。

「ロン」は人が大好きで、私が彼の家に顔を出すと大喜びしてじゃれてきたものだが、旅行などの時に何度か私の家で預かることにしてからというもの、私は「ロン」からすっかり嫌われることになってしまった。家族の一員だと思い込んでいた「ロン」にとっては自分が置いていかれることが納得できなかったのだろう。従弟夫婦が引き取りに来ると目の前で脚を上げて床を汚した。何度かそんなことがあって、「ロン」は二度と置いてきぼりを食うことはなくなった。日本全国、家族の大切な一員として旅をすることが出来たのである。

そんな愛犬が急死したのである。悲しみは如何ばかりなものか。
「それにしたってよね。思わずいってしまったわ。いい加減にしなさいよって」
彼の奥さんの話では、彼は愛犬を腕の中に抱きしめながら、ずっと泣きやまなかったそうである。
「自分の親が死んだときだって平気な顔をしていたのに、たかが犬が死んだからって、ちょっとおかしいわよね。私が死んでもあんなに悲しんでくれるかどうか」
奥さんの不満はもっともである。しかし、彼にとって「ロン」との関係は、それまで経験をしたことがなかった直接的で豊かな感情交流の日々であったことも確かなように思える。
 2007/12/10 更新